似た話題が続きます。「宗教に関する世間との認識のズレ」。
どうも日本では、宗教は「清く正しく、そして貧しく(?)」あらねばならないという定義があるようです。自身は「宝くじ当たれ!」なんて神社に詣でたり、霊能者に伺いを立てたりするのに、お寺に外車があったりすると「生臭坊主が」なんて文句を言う。
自分は豊かになりたいが、宗教者が裕福であるのは許せないようです。いや、普通の生活をしていても「信仰を持っているくせに」と嫌味を言われてしまいます。
まあ、世間の宗教に対する期待の裏返しとも言えるのかも知れませんが・・。
もちろん、暴利をむさぼる不埒(ふらち)な輩はいます。でも、そもそも信仰は何の為にするものでしょう?幸せになるためではないですか?
当然、一番肝心なのは霊魂の、心の救いです。でも真理を見通し、万物を治める方法も学ぶわけですから、物質的に豊かになることは否定されるべきではないんです。もちろんお金におぼれて信仰を見失っては元も子もないのですが(つまり、バランスが大切です)。
でも、世の中はそうは見てくれません。以前、麻原彰晃が「メロンが好物」というのをワイドショーがつっこんでいましたが・・宗教者にあるまじきと言いたいのでしょう。オウムは肯定しませんが、「別に食べ物に好き嫌いがあっても構わんだろう!?」と思った私。クリスチャンでも経済的に祝福されている人なんて、世の中にゴマンと居ます。
何度も言いますが、神様は完璧でも、宗教は人が地上で行なうもの。だから会社や政治などの世界と変わりません。運営上でケンカもあれば飯も食わねばならない。この世の中でタダで物事を成せることがありますか?
宗教の献金が問題視されますが、摂理の実情をバラす(?)と、一教会30人なら主日献金は大体1人千円ですから、1ヶ月は千円×30人×4回で12万。都会で場所借りているなら家賃にもなりません。ボーナス時に1/10献金とかしますが、半分の15人が社会人として、年間では15人×3万×2回で90万。
年間234万円でリーダーの生活から光熱費まで諸々の費用を賄わないといけない。一般家庭を維持している大人の方なら、どんなレベルか察しが付きますよね。
伝道にしたって、どこの宗教も「この素晴らしい話を誰かに聞かせてあげたい」という思いがありますから、仲良くなるチャンスを願っています。だから摂理の伝道だけが非難されるべきではないと思います。
伝道は会社の営業と同じです。世間の会社でも、零細なうちは飛び込みやポスティングなど、「人の迷惑顧みず」(?)チャレンジすることから道が開けるのではないですか?まあ、本音と建前の日本社会、「やっているのは自分だけではない」という言い方のは言い訳にしかなりませんけれど。
とにかく、このブログのテーマでもありますが、「信仰も世間も同じ」だということです。世間の悩みは宗教でも共通していることだし、未知の世界を追求する科学のように試行錯誤もあるんです。
「宗教なのに」と失望する人がいたら、それは現実を見ていないこと。イソップの「すっぱいブドウ」の寓話のように、自分勝手に期待をかけては失望して、出て行って文句を言うようなものです。
もちろん、宗教はより理想を目指す世界には違いないですし、「見えない世界」を扱う故の難しさもあります。でも会社も善し悪しあるように、宗教もピンきりあります。お金儲けに上手い話は無いように、「願いがすぐに叶う」なんて甘い誘惑には御注意を。
摂理は?・・とっても地味でハードな世界です(笑)。