「あなた、まず、わかって走りなさい。」
それが、先生と初めてサッカーしたときに、直接頂いた言葉でした。
その言葉は私のサッカーのプレーだけでなく、
私の信仰生活全てを貫いて語られた命の言葉でした。
当時の私は、分からないまま摂理を一生懸命走っていました。
分かっていないのに、周りの目を意識して、分かっている振りをして頑張っていたのです。
結局、自分の中で「分かって」走れるようになるのに2年の歳月がかかったと思います。
私が摂理で御言葉を聞いたとき、人生の真理を知った喜びで一杯でした。
また、魅力的な摂理の先輩達に囲まれて、
自分もいつかその人たちのようになりたいと願っていました。
先生に会ったとき、多くの人が雲のように先生を取り囲んでいました。
先生がアイドルのように格好良いわけでもないし、
もう50歳を超えていた先生がどうしてそれほど人気者なのか全く理解できませんでした。
当時の私の目には先生が独裁者のようにも映りました。
それでも私は周りの人たちに、自分が頑張っている姿を見せたかったし、
分かっていないことを知られたくなかったから、
ずっと自分自身を騙しながら摂理を走っていました。
先生と別れるときに、私のいる教会の人たちに一言くださいとお願いしたら、
「ここ(月明洞)には、霊が成長した人がたくさんいるから、
出来るだけ多く足を運んで、たくさん学びなさい。」
と、仰ってくださいました。
私の摂理人生の中で、最も成功だったのは、
先生の一言を守ろうと努力したことだと思います。
私は可能な限り月明洞に足を運び、先生にひたすらついて回りました。
そこで見てきた先生の姿を今でも思い出せるし、その時は分からなくても、
この目に先生の姿を焼き付けておいたことが後々の大きな財産になりました。
それでも当時は、よく分からないまま頑張っていたから、自分が苦しくなるばかりでした。
当時の私は、先生のことを「聖書を通して人生を教えてくれる先生」と思っていました。
それは間違ってはいないけれど、十分な回答ではないと思います。
結局のところ、先生が何の先生なのかを分かっていなかったのです。
直接的に先生に会いに行くことで、先生と近くなれるわけではありませんでした。
実際に距離が近い場所にいても、相手のことを理解できないと、
そこには超えられない断崖絶壁があるのだと思います。
私は当時、指導者の方から「もっとお祈りをしなさい」と言われていました。
自分としてはたくさんお祈りしているつもりでしたが、
結局のところ、神様にお祈りしていたのでなく、
「神様にお祈りしている姿」を人に見せようとしていただけでした。
私と神様との関係は、まだ始まってさえいなかったのです。
偽善者の外飾信仰を聖書では痛烈に批判しているけれど、
私はまさにそのような信仰生活を送っていました。
歳月が過ぎてゆき、それでも先生のことがよく分からないままでした。
そして、新しく後輩達が摂理を走るようになったとき、自分もよく分からないのに
一体何を教えるのだろうか?と、ますます苦しくなっていました。
私は、このままでは自分が苦しくなっていく一方だし、
いつになっても「分かる」日は来ないと思いました。
そして、幾夜の沈黙の祈りの中で、自分と神様との関係がやっと始まってきたのです。
私は自分の能力に自信があったし、出来ないことなんて何一つないと思っていました。
その考えは、神様が私の人生に働きかける機会を奪っていました。
私は、自分の力ではいつになっても分からないと認めるようになって、
やっと神様が私の人生に入ってこれるスペースを作ることができたのだと思います。
そして、どういう祈りをすれば神様は聞いてくださるのか?
どういう生活をすれば神様が喜んで下さるのか?
神様は何を好み、何を嫌うのかなど、たくさんの疑問が沸いてきました。
聖書を読むことで、神様がどのような方で、
また、どのように働いてこられたのかが分かるようになってきたし、
同時に、先生がどれほど聖書を分かりやすく教えてくださっていたのか
改めて分かるようになりました。
今となっては恥ずかしくもありますが、
先生は「神様について教えてくださる先生」だとやっと分かるようになったのです。
そんなことも分からないでついていってた私に、
先生は最も必要なアドバイスを最初に与えてくださっていたのでした。
分かって眺める先生は本当に格好良く見えました。
そして、私は先生のように神様を愛して、
神様に仕えて生きていけるようになりたいと願うようになりました。
私がこのように信仰を持つようになれたのは、間違いなく 鄭 明析 先生のおかげです。
先生は昔から変わることなく、どうやって神様を愛し、
仕えて生きていくかを、その身をもって見せてきてくださいました。
一人の人が神様を信じるようになることが、一体どれほど大きな奇跡でしょうか。
そんな偉大な事業を先生は先頭に立って、ずっと推進されてきました。
今は私も、少しでも先生のお手伝いができればと思い、摂理の発展のために走っています。
これらの話は、まるっきり信仰オンチだった私の恥ずかしい体験ですが、
これから信仰の道を歩もうとしている人たちの一助になることを祈って、ここに記しました。
末筆ながら、長い文章に付き合っていただき、ありがとうございました。