私が摂理を歩んできた道の中で
多くの出会いがあり、そして別れがあった。
摂理で今も走っているメンバーの名前を忘れることがあるのに、
摂理を去った人たちの名前は何故か忘れることができない。
別れというのは出会いよりももっと衝撃的なことなのだと思う。
信仰は、最期は本人の自由意志だから、
去っていく人たちのことを責めたりはしなかった。
信じるのも自由だし、
信じないのも自由だ。
他の宗教を選ぶのも自由だし
摂理を選ぶのも自由だ。
全ては本人が決めていくこと。
それを無理強いすることは出来ない。
ある人は、ちゃんと話し合って別れたし
ある人は、突然姿を消した。
連れ去られてしまった人もいるし、
監禁されてしまった人もいる。
摂理と関わり、辛く悲しい思いをした人は多い。
摂理は生きている宗教だから、
楽しいこともあれば、悲しいこともたくさんある。
覚えていて欲しい。
摂理を去っていく人を見送る者の背中は悲しい。
私もここまで来るまで、どれだけの涙を流してきただろう。
今言えることは、人は越えてきた悲しみの分だけ、背中がちょっぴり大きくなる。
私は先生の微笑みが好きだ。
何故なら、あの微笑みは、深い悲しみを乗り越えてきた人にしか作れないから。
先生ほど、摂理を去った人を見送ってきた人はいない。
先生の背中は大きい。
青春時代を共に過ごした時間は、消し去ることはできない。
共に笑い、共に泣き、夜通し語り合った時間も、ぶつかり合った時間も
今はかけがえのない思い出。
その時間は永遠に色あせることはない。
摂理を去った人たちへ
いつの日か、また顔を合わせて、
昔話に花を咲かせながら、微笑みあいたい。
いつか必ずその日が来ることを
私は今も祈っている。