今週のWは、マタイ25:14〜、タラントの話から。そして、命の管理についての話もされた。こういうWを聞くと、いろいろ思い出すことがある。
少なくとも、自分は何か求めて摂理に来たわけでもない。縁あって伝道されたものの、人生の道を探していたとか、神様を知りたいとか、そういう高い次元の意識はなかった。
つまり「よくわかってない」ということだろう。30個論を聞くのも1年以上かかったし、何よりまわりは立派な先輩たち。教会にいても特に役に立つことも少なかったように思う。
教会の皆は「○○君が居てくれるだけで楽しいよ」と言ってくれはしたけれど、そう言われてもなあ・・というのが正直な気持ち。「何のために摂理にいるのか」。いつもそれが自分の葛藤だったかも知れない。
摂理に来て何年か経ち、教会生活も楽しいと感じられるようにはなったけれど、それはそれ。スポーツも音楽も下手だし、伝道で人と会話したりとか、自分にとって摂理は苦手なことが多く、「あまり役に立てない自分」というのはいつも引っかかっていた。
そんな悶々とした思いが日増しに増えていく中、韓国に行く機会があった。
ソウルで先生を待っていた時だったと思う。当時先生のお宅(貸家)は韓国の山の手にあり、そのふもとのパン屋兼喫茶のパリバケット(←ポリバケツと呼んでいたけど、笑)で時間をつぶしていた。
店内でお茶などしていると、ふと、そばのテーブルの日本人メンバーの会話が耳に入ってきた。
「自分が摂理にいる価値がないなんて、いけない考えだよね〜」、「そうだよね〜」。
それを耳にして、(・・でもピエロじゃなぁ・・)と呟いてしまった私。
と、その瞬間、心に声が響いた。
「たとえあなたが道化師だとしても、私が共にしないと思うのか。あなたにはもっと色々な才能を与えている。私は決してあなたを離れず捨てない。」
自分はあまり霊感とか受けるタイプではないけれど、この時はハッキリ覚えている。
(主よ・・。)とても切なく申し訳ない気持ちがした。
もちろん、この後劇的に変わって走れるようになったとかではないし、わかってなかったり、ズッコケながらというのは相変わらずだったと思う。でも色々役目も任せてもらえたり、教会で大切な役職に就かせてもらったりもした。神様から頂いたタラントを十分生かすことができたかどうか・・それはなんとも言えないけれど、摂理に居る甲斐は十二分にあったと思う。
そしてまた、こういう自分を支えてくれた人がたくさんいたことも大きいと思う。
まわりの先輩たち、日本人はもちろん韓国の有名な大先輩たちがいたけれど、今週の御言葉にあるように、皆さん、小さな小さな自分に良くしてくれた。
先生は偉大すぎたし、御言葉も難解だったけど、先輩達の魅力的な先生の証を聞いて、「先生ってそういう人なんだ」と感激できたことも多かったと思う。そしてそういう証をする使徒たちがとてもカッコよく見えた。
そんな中、こんなこともあったっけ。
何かで京都に行った時だったかな、ある女性のリーダーが自分の傍を歩いていたのだけれど、お寺の境内が砂利で、ハイヒールで歩きにくかったのだろうか。「ちょっと腕を貸してね」と僕(←当時)の肘に手を添えてきた。
この女性リーダー、スチュワーデス出身とかで今で言うセレブな雰囲気の人。そんな人に同伴して歩くことになったので、こちらはとまどい、照れて下を向いて歩くしかなかった。
ふと、その女性が口を開いた。
「○○ちゃん、大きな人になるよ」と。
「え!?」
瞬間意味がわからなかった。あわてて「あ、はい・・」とこれまたはにかんだ返事をするしかなかったけれど・・自分のような者にもそのように言ってくれたことが嬉しかった。
あれからもう、どれくらいの月日が過ぎたかな・・信仰の幼き日の思い出。
これまた摂理生活、紆余曲折あってまだまだそのような大きな人には成れていないのだろうと思う。歳を食うほど難しいことも多い。でも懐かしんでいる段階でもないはずだ。まだ人生半分残っているし、摂理もこれからだ。
大きな人とは言わないけれど、残りの人生で天のために、摂理のために何かひとつでも貢献できれば幸せだと考えている。
それには今までの信仰では通用しないこともあるだろうし、若い時とは違った自分のタラントも開発しないといけないだろう。そのように今もチャレンジしている先生を見習っていけたらと思う。
ひとまず、過去の自分を支えてくれた天に、皆さんに感謝を込めて。