私の霊を注いであげよう本文 使徒行伝2:16-21
全知全能の神様の愛と、主の慈悲と恵みと、聖霊の感動と熱い働きが満ちることを祈ります。
主がおっしゃいます。
「私の再臨が10年後にあっても、7年後にあっても、3年後にあっても時間は同じだ。」
どういうことかと言うと、人々が考えるとき、3年より10年という時間がはるかに長く、準備できる機会がもっと多いと思うでしょう?誰でもそう思います。先生も3年、7年、10年は時間の差があると思いました。世の中で誰でもそのように考えるでしょう。
しかし主の御言葉を聴いてみるとそうではありません。「あなたがたの考えは私の考えと異なる。」とおっしゃいました。主がおっしゃるには「ぐっすり眠る人が1時間寝て目を覚ましても、2時間寝て目を覚ましても、3時間寝て目を覚ましても、眠りの中の時間は1時間、2時間、3時間、全て瞬間のようだったのではないか。もっと眠っても、少なく寝ても、瞬間の時間のようだ。これと同じく3年でも、7年でも、10年でも、あなたがたの日々が夢のように瞬間に過ぎ去る。だから将来の10年も、7年も、3年も、全て同じ時間で、短い時間だけ残っているのだ。だから慌てて早く悔い改め、早く用意し、伝道すべき人たちを早く伝道し、早く私と一体になりなさい。しようと思うなら早くしなさい。しないつもりなら私に失望ばかりさせないで、聖殿の敷居ばかりすり減らさないで、席ばかり占めていないで、救われるべき他の人たちが座るように席を空けてあげなさい。」とおっしゃいました。
世の中でどんなことができないとしても、救いだけは確信できるように十分にやって生きなくてはいけません。世の中で成功はできなかったとしても主を迎えれば人として生まれた最高の甲斐がある人であり、誰より成功した人です。
主からもらった歌がまた出たでしょう?「永遠に幸せな道を行く人が幸せな人」だと言いました。人々はちょっとの間幸せな道を行きながら幸せだと言います。それが幸せではありません。
一夜の愛のことをどうして愛だと言えますか。説教を聴いて感動してその瞬間だけ兄弟を憎まず、その後にまた憎むのが本当の愛ですか。こういう人は愛において幸せな人だと言えません。永遠に許してあげ、愛してこそ愛の永遠な幸せな人です。
愛は計算するものではありません。無条件、主の心で、単純に、幼子のように、愛するのが愛です。「あいつが間違ったのに・・・私に悔い改めもしないで本当に良心がないな。」と言いながら計算してはいけません。これは偉大な愛ではありません。主の愛ではありません。
先生には敵たちと私を憎む人たちがたくさんいました。しかし全て許してあげました。彼らが地獄に行かないように彼らのために祈ってあげました。
ある日、主は私に「あなたは私の恋人なのに、誰がこんなふうにあなたをここにいさせたのか。私がそのままにしておかない。行なったとおりに報いてあげるだろう。」とおっしゃいました。この時、私は主に「私には敵もいないし、憎む人もいません。主にしたがってここに来ました。」と言いました。この時は2007年7月でした。
主は「本当にいないのか。」とおっしゃいました。私は「本当にいません。いれば私が神様に告げて処理するでしょう。私は先に許してしまうから私には敵も、憎む人もいません。主が教えて下さったとおりに従順しながら行くべきでしょう。」と言いました。
その時、主は「敵を愛することがどんなに偉大な愛なのか。どんなにすばらしい人なのか。」とおっしゃいました。そしてまたおっしゃるには「毎日一言、箴言で一巻の本をつくってあげるから、私の言葉を覚えて心に記録しておき、後で書ける機会が来たら紙に記録しなさい。」とおっしゃいました。
愛は計算するものではなく、ただ単純に考えて愛してあげるべきです。憎んだ人も、自分に無念な思いをさせた人も愛するものです。絶対に従順しなくてはいけません。自分が自分を悟ってみるのと上から見るのは異なるし、兄弟が見て接するのは異なります。信じますか。
使徒行伝2章16~18節まで読んでみて、残りの21節までまた読んでみましょう。みな一緒に読んでみましょう。
(使2:16-21)『〔16〕そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、〔17〕「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。〔18〕その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。〔19〕また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。〔20〕主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。〔21〕そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」。』
イエス様は人類のために人々の罪を代わりに負われ、十字架を負われました。そして復活後、天の国へと昇天なさいました。その時も実際、旧約の終末でした。神様はヨエル預言者を通して預言なさったとおりに男女の僕たちに神様の霊を注いで下さいました。
空(から)の器に水を注いでやると、水がいっぱいになるでしょう。神様の霊を心の器に注いで下さると、皆さんの心の器に神様の霊がいらっしゃるようになります。単純に「聖霊を受けた。火を受けた。恵みを受けた。異言を話す。異言を通訳する。」という恵みの次元で終わるのではありません。神様の霊が皆さんの心に来られるからそのように神霊な働きが起こるのです。
聖霊は熱いものとばかり思ってはいけません。聖霊は「神様の霊」です。主も「神様の霊」です。神様と聖霊様とイエス様は三位一体だと言ったでしょう。神様の霊を注いで下さるのです。この時、主も共になさり、聖霊様も共になさいます。三位の神様でいらっしゃいます。
聖霊の働きを単純に神様の恵みとだけ考えてはいけません。聖霊の働きは熱いのがすべてではありません。神様の霊が臨むから熱いのです。使徒の時代に五旬節の聖霊の働きもそのように起こりました。聖霊が臨むと異言を話し、九つの賜物が臨みます。
神様の霊を受けて熱いから叫ぶのです。恵みを受けると本当に火の塊が太陽のように自分の前に近寄って来るでしょう。熱すぎて焼けて死ぬほど熱かったりもしたでしょう。
「聖霊は熱い。」、「聖霊を受けると九つの賜物を受ける。」とこのようにばかり考えてはいけません。なぜ主が「水と聖霊で生まれ変わりなさい。」とおっしゃったのか知らなくてはいけません。「水と聖霊で生まれ変わってこそ天の国に入れる。」ということです。
水は命の御言葉、救いの御言葉です。御言葉で生まれ変わらなくてはいけません。また聖霊で生まれ変わりなさいと言いました。聖霊で生まれ変わりなさいということは「神様の霊を受けなさい。神様の霊で生まれ変わりなさい。」ということです。
聖霊を体験するだけでは、ご飯を食べるのにご飯の味がどうか一匙食べてみたり、果物があって一口食べてみたのと同じです。恵みを体験するだけではいけません。食べ物を味見するだけでは結局飢え死にします。十分にたらふく毎日食べなくてはいけません。
「聖霊を受ける」ということは今日の御言葉のように神様がおっしゃるには「私が私の霊をあなたの肉体に注いであげることだ。私の霊があなたの肉体を使ってこの世で私の人生を生きることだ。」とおっしゃいました。これを中心として主も一体となり、天母様も一体になるのです。
主は愛で救って下さり、聖霊様は感動させてすべきことをおさせになり、神様は能力で私たちの肉体にその霊を注いで下さって、天の国の霊の形体を着るように変化させて下さいます。
しかし根本は、神様の霊が私たちの肉体に臨むと肉体にあらゆる恵みの変化が起こるように、私たちの霊も変化が起こります。どんな変化かというと、すなわち天の国の形体に変化するようになります。天の国の天使や主のような形体へ変化を起こすようになります。あの天に属する霊の形を着るようになります。主のような霊になります。天使のように、あるいは天の国にいる霊のように変わるようになります。そうしてこそ天の国に行くようになります。
このように神様の霊が臨むと熱いだけで終わるのではありません。自分の霊が天の天使や主のような形体に変化し、天の国に行って生きられる体へと形体が変化します。
神様の霊が臨むと神様の霊がその人を支配します。サタンが来るとサタンがその人を支配します。主は三位体なので聖霊様と共に働かれます。聖霊について知って受けなくてはいけません。知っている通りに続けて話してあげましょう。みな神様と主にどんどん訊いてみて下さい。個性どおりに教えて下さいます。
神様が神様の霊を私たちの肉体に注いで下さると熱くて感動が起こり、男女が愛すると愛の反応が起こるように私たちの肉体に愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制の働きが起こるようになります。
それだけでなく遺伝子、生命体の形体が変化してこの世の人として生まれるように、神様の霊を私たちの肉体に注いで下さると私たちの霊が天の形体へと変化して天の国の人たちになります。天母、聖霊様は霊の母として変化した霊たちを育てて下さいます。
形体が変わって天の国の天使や主のような形体になった霊でなければ天の国に行って生きることができません。そうでなければ主の御言葉通りに決して天の国に行くことができません。聖霊で生まれ変わってこそ天の国に行くことができると言いました。
主は公生涯のとき3年間、御言葉をお伝えになり、人々を水と聖霊で生まれ変わらせて下さいました。主が逝かれた後にはそのようにする人がいないから神様がそれぞれの肉体に神様の霊を注いで下さって歴史をお広げになりました。その時から今までずっとそのように働きかけてこられました。
今神様は私たちの肉体にその霊を注いで下さり、聖霊によって私たちの霊の形体が天の国の霊へと生まれ変わるようにして下さっています。だから主の再臨を前にして行われる聖霊の集会に絶対に参加して勤しんで新しく生まれ変わらなくてはいけません。
集会に参加しなければ恵みを受けられないだけでなく、霊が天の国の形体に変化することができません。前に変化した霊はまた眠って罪を犯したため闇の主管圏にいるので、再び神様の霊を受けて新しく変化しなくてはいけません。
先生も初めて聖霊を受けたとき、サッカーボールくらいの火が講壇のほうから来ました。一人でいるときでした。その時は梅雨時だったのですが、教会へ行こうとすると川を渡らなくてはいけませんでした。その川のほとりを渡っていると水が増えて、死を免れて、雨でずぶぬれになって教会に来て、一人で祈っているときでした。
その時講壇の上のほうから火の塊が来て、焼け死ぬほどに私の体が熱かったです。瞬間、数十カ国の異言が出てきて通訳が出てきたので、私が霊でどんな祈りをしているのか悟るようになりました。神様が臨在なさり、聖霊様が臨在なさり、主が臨在なさる時、熱いです。火はすなわち神の降臨です。
その日の明け方に熱く悔い改め、これからどのように生きようと決心しました。どんな困難があっても主を信じて神様を愛して生きようと祈りました。
その後、ずっと恵みの生活をしながら山でのお祈り生活をより熱心にするようになりました。また伝道するようになり、街やバスで叫び始めました。遠い距離にあるチョンジュや、チョナン、テジョン地域に行くときは、車がないから夜に飛んで行きました。天使がいつも共にして神様が臨在なさるから、主とさらに同行して御言葉に従順することができました。
神様の霊を受けたから、神様と主と一体となって生きなくてはいけません。毎日神様と主に仕え、愛し、その御心通りに実践しながら生きなくてはいけません。この世に属した霊でなく、天に属した霊へとその形体が変わってこそ、神様と主と一体となり、聖霊の感動の中でさらに同行して生きることができます。
聖霊で生まれ変わってこそ第一に、罪を遠ざけるようになり、もう罪を犯さなくなります。第二に、本人の信仰が生きて精神が生きるので、罪の落とし穴を分かってそこに陥りません。第三に、サタンの誘惑と惑わしも、知恵と知識で分かって治められます。第四に、キリストの中で罪に定められなくなります。
単純に隣の人が受ける火によって体験的に熱く感じるだけの体験で終わってはいけません。聖霊を満ちるほど受けて天の国の霊へと生まれ変わってしまうべきです。少し熱いのは神様が自分に来るという予備の感じに過ぎません。聖霊を受けるとき、気をもんで切に求め、神様の霊が自分と一つになることを分かって満ちるほど受けなくてはいけません。
神様がそれぞれの肉体にその霊を注いで下さいますが、満ち溢れるほど十分に注いで下さることができるようにしなくてはいけません。そのためには世界の
摂理の教会は、聖霊を満ちるほどに受けている人たちを中心として連続的に恵みの歴史を続けなくてはいけません。神様の霊を受けた人たちも、恵みを体験した人たちも、まだ受けられていない人たちも、続けなくてはいけません。
神様は哀願し準備できると、一人でいてもその霊を注いで下さいます。外国に出て行っている人たちも自分の位置で祈って神様の霊を注いで下さいと切に求めなくてはいけません。讃美し祈って熱心にやらなくてはいけません。秋になると脱穀の機械一台だけではその広い野原を全て脱穀することができません。すぐに吹雪が吹き付けてきます。早く聖霊に満ちた人を任命し、各教会で欠ける人なくみな聖霊を受けるように、聖霊の働きを続けなくてはいけません。恵みを受けたことを証しますが、絶対に秩序を持ってやり、騒がしくしてはいけません。他の所へ流れて行く時間を奪ってみな全面的に祈って伝道しなくてはいけません。時間は主です。時間を奪われると主を奪われます。主を優先権にして時間を使わなくてはいけません。
神様の霊を満ちるほどに受けてこそ昔先生がやったように一箇所で数百人ずつ伝道するようになります。ペテロも五旬節に聖霊を受けて3000人を悔い改めさせ、洗礼を授けました。(使2:41)
主は十字架を負われる前にも命の御言葉を伝えて人々が水と聖霊で生まれ変わるようになさいました。神様の霊が臨むようになさいました。恵みと真理が充満するようになさいました。主は「神様の御言葉を託された人は神様」だとおっしゃいました。(ヨハネ10:35)
イエス様がこの世にいらっしゃったとき、その時代が邪悪でなく、イエス様とその福音を受け入れてついて行ったなら、主は十字架を負われず、3年間福音をお伝えになり聖霊の働きをなさったように、続けてそのように歴史をお広げになったでしょう。その時代は責任を果たせず、神様が遣わされた救い主を拒絶したので、神様は御心を変えて神様が直接その霊を全ての肉体に注いで下さいました。三位の神様でいらっしゃいます。
この時代もイエス様が先生を通して伝える時代の福音を受け入れたなら、そのまま命の御言葉で神様が働きかけられ、御言葉と聖霊で生まれ変わるようになったことでしょう。私たちの肉は九つの恵みを受けて生まれ変わるようになり、私たちの霊は天の形体を着て歴史を続けて広げていったでしょう。
時代の十字架を負ったから今神様がその霊を摂理の全ての肉体に注いで下さっています。神様の霊が臨むとすべてのことを証するようになります。特にメシア、主を証するようになります。証すればするほど能力が生じます。主を強く証しなくてはいけません。使徒の時代にも主を証しました。皆さんは主と私を証するでしょう。
旧約時代にも神様の霊が臨んだとき、全てのことを証しました。モーセに神様が臨まれ、ヨシュアにも臨んで歴史をお広げになりました。預言者たちに神様が臨んでその時代の切迫した状況を叫ばせて救いの歴史をお広げになりました。
ダビデにも神様の霊が臨んだのでダビデは獅子の口を引き裂き、イスラエル民族の運命を左右するゴリアテを打ち殺し、パリサイ人の大軍と戦って勝ちました。神様の霊が臨んでその霊を肉体に注いで下さるとこのように大きなことをするようになります。それなのに何人かだけ伝道して終わるでしょうか。百人、千人、一万人ずつはやるべきでしょう。
摂理の運命を背負って行かなくてはいけません。
サムソンやギデオンに神様の霊が臨んだから、自分の民族に攻め入って来た人たちを神様の霊の能力で、神様と共に打ち破って滅ぼし、40年間民族を平和にしました。
このように神様の霊が臨んだら大きなことをしなくてはいけません。数十人が
摂理の運をもらっても3~4人しか伝道できませんでした。たった一日だけでもそのくらいはできます。聖霊で生まれ変わっていないからそうなのです。全ての過ちを悔い改め、街に出て行って彼らが聞いても聞かなくても時代を叫んであげなくてはいけません。死ぬ前に全てのすべきことをやって下さい。私たちがやれば主はキリスト教で火をおつけになるでしょう。
神様の霊を注いで下さる神様と、私たちを救って下さるイエス様と、私たちを感動・感化して下さり熱く働きかけられる聖霊様に感謝を捧げ、三位の働きが全ての人たちに満ちることを祝福します。アァメン。

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