その日には全て目につき、全て露見する 早く悔い改めて備えるべきものを用意しなさい本文 マタイによる福音書22章1-14節ハレルヤ!主の平安を祈ります。
植物の花の季節が去り、美しく勇壮な紅葉の季節が徐々に過ぎ、もう物寂しい季節がだんだん近づいています。それでも11月の一ヶ月は物寂しさを感じながら街を歩いても歩くことができます。大地の花も散り紅葉も散ると物寂しいですが、クリスチャンという人の花を咲かせれば冬にものどかでしょう。
今日の本文の御言葉を見ると、イエス様はその当世にあった状況と未来に起こることについて比喩を使って話されました。
ある王が自分の息子の結婚披露宴を催し、しもべたちを遣わして招いた人たちに来なさいと言いましたが、彼らが来ることを嫌がりました。王は他のしもべたちを遣わして「私が牛も肥えた獣もほふって食事を準備したから、私の息子の結婚披露宴に来なさい。」と言いました。しかしある人たちは見向きもしなかったし、ある人たちは田畑を耕しに行き、ある人たちは商売に出て行き、またある人たちは王が遣わしたしもべたちを辱め、悪評し、一部は殺しまでしました。誰が聞いても本当に悪い人たちであり、王を無視して踏みにじった人たちであり、「生まれたばかりの子犬はトラを怖がらない」(訳注:「無知は恐れを知らない」という意味のことわざ、日本語で言えば「知らぬが仏」「めくら蛇に怖じず」)と言いますが、王を陵辱した人たちです。
王がその話を聞いて激しく怒って軍隊を遣わし、しもべたちを殺人した人たちを滅ぼして彼らが住んでいる村を燃やしてしまいました。悪い人たちは自分の悪によって迫っていることを本当に知らずに生きています。
王はまたしもべたちを遣わして、道でも、野原でも、出会う人は誰でも、悪人でも善人でもみんな連れて来なさいと言いました。すると結婚披露宴にお客さんがいっぱいになりました。
王は誰が来たのか見ようと結婚披露宴の宮殿の庭をことごとく歩き回りました。ところがその多くの人々の中に、礼服を着ずに来た人がいました。王はその人に「友よ、どうして礼服を着ていないのか。」と訊くと、その人は食べていた食べ物を口にくわえて何も言わずに見つめているだけでした。本当に困ったことです。荒唐無稽なことです。それで王はそばの者たちに命じて「この人の手足を縛って外の暗闇に追い出せ。そこで泣き叫んだり歯噛みをしたりするであろう。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないなあ。」と言いました。
この時代の私たち皆は、天の国に行くに当たって歴史の宴に招かれて来た人たちです。
今は私たちが神様とイエス様を選んで生きなくてはいけません。イエス様のこの比喩の御言葉はその当世のときに成されたし、その後にも成されました。
王は神様をたとえたものであり、王の息子はイエス様をたとえたものです。イエス様をこの世に新郎のように遣わして、迎えた人は信仰的にその方の新婦の立場になって救われ、その方と一つの体になって天の国に行くようになり、この世で生きる間にもイエス様に仕え、信じて生きることをおっしゃったのです。
王がしもべたちを遣わして宴に来なさいと言ったけれど来なかったということは、イエス様が来られる前の旧約時代4000年間、神様を信じて生きることを願ったけれど信じなかったことをおっしゃったのです。しかし小さな都市くらいのイスラエルの中には神様を信じる人たちがいました。
また王がしもべたちを遣わしたことは、イエス様の天国の福音の宴に来なさいと神様のしもべたちを遣わしたけれど来なかったことをおっしゃったのです。その理由は、自分の生活の場へ行き、あるいは世の中に溺れて生きているためについて来ないし、あるいは関心がなくて来なかったのです。残りの人はイエス様に反対し、異端視し、排斥し、遣わした人たちを悪く言い、その中には殺す人たちまでいました。
イエス様の当世、信じない人たちは福音を蔑視し、反キリストたちだと言って迫害し、異端視し、捕まえて回り、捕まえると獄に閉じ込め、殺しまでしました。どれほど心が傷つき、心情が苦しかったでしょうか。王のような神様がご覧になってどうなさったでしょうか。
イエス様の当世、どれだけイエス様の福音に反対し、迫害したのかご存知ですか。イエス様の福音を伝えると無条件に捕まえて回りました。捕まえる人たちは特にその時代に神様の弟子たちが福音を伝えるたびに、ともすれば彼らに告げ口しました。ローマ人たちはたいてい軍隊でイスラエルを支配し治めました。ローマ人たちが行って聞いてみるとこれといった特別な問題になることではありませんでした。
招いた人たちが来ないので、街で出会う人は誰でも福音を伝えて来させました。悪人でも善人でもみんな来させました。結局、天の国の宴に多くの人たちで満ち溢れました。多くの群れがイエス様の御言葉を聞いて天の国の宴の歴史を成しました。
そのように福音を広げている途中でイエス様が十字架につけられて亡くなった後に、イスラエルはローマの兵士たちによって陥落するようになりました。イエス様の比喩の御言葉どおり、神様が軍隊を遣わして、福音を伝える人たちを迫害し殺した人たちのその悪い行いどおりに行なわれました。
王の息子の結婚披露宴に来た人たちは、悪人でも善人でもみんな追い出されませんでした。しかし礼服を着ていない人は縛られて追い出されました。宴会場に行った人なら、他のことはできなくても礼服だけは整えて着なくてはいけません。整えなければ皆が見て気分が悪いのです。礼儀のない行動です。
この時代も神様がイエス様を世の終わりの終末に遣わされ、再臨を控えて主を迎えさせるために恵みと聖霊の宴をしています。天の国の主を迎える結婚披露宴をしていらっしゃいます。救いの結婚披露宴、恵みの結婚披露宴、聖霊の結婚披露宴、主を新郎として迎える結婚披露宴を神様は進行していらっしゃいます。私たちの目に見えなくても主は私たちの中に現れて行き来していらっしゃいます。
主は人々を遣わして招いて来なさいと言いましたが来ませんでした。再び人々を遣わして、ちょうど王が「肥えた獣をほふって全てのものを用意しておいたから、結婚披露宴に来なさい。」と言ったように、「世の終わりの日だ。再臨の前だ。私が約束どおりに聖霊を与えるから来なさい。聖霊の熱い働きを通して、人間たちが願う全ての恵みを与えてあげるから来なさい。人生を変化させ生まれ変わらせる聖霊の働きをするから来なさい。霊魂が救われて天国に行くようにする永遠の命の御言葉が準備されているから来なさい。」とおっしゃっています。
神様はあちこちイエス様の新婦たちを見て回っていらっしゃいます。ちょうど王がきれいな礼服を着ていない人を見てそばの者たちに命じて引きずり出して外の暗闇に追い出すように、神様は礼服を着ていない人たちをご覧になって追い出されるでしょう。
では礼服はいったい何のことなのか、礼式場に来るお祝いの客たちが着る礼服と新婦たちが着る礼服は信仰人たちにとって何のことなのか話します。
神様の人々は信仰の服を着なくてはいけませんが、これは救われるにあたって絶対に必要な義の服です。
ヨハネの黙示録19章7-8節を見ると「汚れのない衣」は「正しい行い」だと言っています。
汚れのない行いの服を着なくてはいけません。主を信じて生きながら正しく善良な行いをしてこそ、光り輝く汚れのない麻布の衣を着るようになります。悔い改めて主の御心どおりに生きる人にこの服が着せられます。
天国の救いの結婚披露宴に来た人たちなら、誰でも悔い改めなくてはいけません。この世に生きながら神様を信じなくて今信じて神様を愛するようになったこと、神様より世の中を愛して異性で人をより愛して生きたこと、神様の法から外れて生きたこと等を全て間違いだったといって悔い改めてこそ、義人になって神霊で光り輝く白い服を自分の霊に着せてあげることができます。そうしてこそ天国に入って行く福音の宴で礼服を着ていないといって追い出されません。
主がこの世に現れて2000年間働きかけられて以降、今この時は私たちにとって最高の機会です。主は私たちを変化させようとして来られました。限りない御言葉で啓示して下さり、聖霊で働きかけ、しるしで働きかけていらっしゃいます。
引き上げは変化です。変化してこそ引き上げられます。変化しなくては天の国に行くことができません。御言葉を聞いてそのとおりに行なって変化しなくてはいけません。悔い改めることで変化し、聖霊を受けることで変化し、主の啓示を何度も聴いて実践することで変化しなくてはいけません。変化しなかった人たちは結局追い出されました。主は「幼子のように変化しなさい。そうしてこそ天国に行く。」とおっしゃいました。この世で生きても天国の生き方でなければ地獄の生き方をしています。早く彼らのところへ行って「神様が天国に来なさいと招いていらっしゃいます。早く来なさいとおっしゃっています。」と言って連れて来て、時代の御言葉を聞かせ、天国の生き方をさせてあげて下さい。

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