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| 発行日時 | 見出し |
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| 2010-7-25 19:47 |
メンタルヘルス講座4【寂しさについて】
【寂しさについて】
皆さんはどういうときに寂しさを感じますか? ○仲間外れにされた時? ○誰かに自分の気持ちを理解してもらえなかった時? ○気持ちをわかちあえる人が周りにいないとき ○恋人がいない? ○友達がいない? ○家族と離れているとき? 寂しさは 物理的な要因 実際に自分の周りに誰もいない 精神的な要因 自分の気持ちを理解してもらえなかった、 自分が愛する愛情ほど相手から愛情を感じない時に感じることが多いようです 神様は人間を愛で創造してくださったので 人間は神様の愛と お互い人間同士の愛で生きています だから、愛が足りないと感じる時に寂しくなってしまうのは不思議ではありません 実際、寂しさは愛が足りないと感じることが原因です 啓示者の御言葉の中で イエス様も人間に対して、 イエス様の愛に気づいてくれないから寂しいとおっしゃっています イエス様も寂しさを抱くのに私たち人間は寂しさを抱いてはいけないのでしょうか? イエス様だけ寂しくてもいいなんてずるい!? いいえそういう話ではありません 寂しい感情自体が悪だという話ではありません 人間が寂しさを感じる時 本当は天からも人からも愛を十分受けているにも関わらず、 「自分は愛を受けていない」 と誤解していることがあるからなんです。 どうして誤解するのでしょうか? それは人間が産まれてから大人になるまでに経験した寂しさを、 大人になった今も癒せていないことがあるからです 例えば 小さい頃、親が忙しくて自分の話に耳を傾けてくれる機会が少なく、 寂しい思いをして育った とか 親が自分より兄弟を愛してるように感じて 寂しい思いをしていたという寂しさを癒せず心に持ち続けていた場合 心の奥底に眠る寂しさに刺激されて いつも誰かが自分のそばにいてほしい いつも自分を認めて いつも自分を誉めてほしい 等の欲求が芽生えます 上記の欲求は誰しも少なからず抱く感情ですし それ自体が悪いことではないのですが あまりにも満たされないまま育ってくると その欲求が異常に強くなり 自分でコントロールできなくなります そうすると いつもそばにいてあげることは 全知全能の神様イエス様以外無理なんですが それをそばにいる人達に絶えず要求したりして 逆にそうしてもらえないと寂しくなったりします 例えば 学校で先生が誰かを誉めたとします そうすると自分は誉められなかったと寂しくなったりします 先生はあなたを否定したわけでもないし 関心を払ってくれていることには変わりはないけれど 誉められなかったから自分は愛されてない と感じてしまったりします もしかしたら幼い頃、 親が自分の兄弟を誉めた後に 「それに比べてあなたは」 と否定的な言葉をかけられたことがあって 他人が誉められたら自分が寂しくなり落ち込む というパターンを作り上げてしまったかもしれません 段々見えてきましたか? 皆さんが今度寂しいと感じることがあったら 自分自身に問いかけてみてください 今、どうして寂しいって思ったんだろう? 過去にも、今寂しいと思ったのと似たような状況はなかった? 自分が寂しいと感じやすい寂しさのツボを研究してみましょう もしも寂しさを真正面から受けとめずに否定したり 寂しさを放置してその感情に囚われていた場合 寂しさが違う様々な形で表現されます 例えば ○恋愛依存(恋人がいないと不安で仕方がない) ○暴飲暴食 ○誰かのお世話をしないといられない(愛情からではなく強迫観念から) ○買い物依存 ○ギャンブル依存 ○薬物依存 ○アルコール依存 等々です 根本を癒さなければこれらの依存症をひとつやめても また次に違う依存症にはまります 寂しいと感じて大丈夫です まずは自分の気持ちを素直に認めましょう 「私は今、寂しいんだ」 と言葉に出して認めてあげましょう 次にあなたが寂しいと嘆くすぐ隣で あなたをなぐさめようとされるイエス様の存在を思いだしましょう 誰よりも寂しさをご存知のイエス様に あなたの寂しい気持ちを告白しましょう そしてイエス様が24時間途切れることなく永遠に至るまで自分に注ぐ 無限かつ無償の愛を感じて、 自分の心に愛を満たしていきましょう また、自分の心にこびりついた寂しさがなくなっていくように お祈りしましょう 自分の寂しさと向き合うのは勇気のいることです イエス様に助けて頂きながら ひとつずつ自分自身が持ち続けていた寂しさを手放して 自由になっていきましょう 次回予告 心配・憂い・疑いについて お楽しみに♪ |
| 2010-7-18 17:19 |
メンタルヘルス講座3【怒りの扱い方
皆さんはご自分の怒りをどうやって表現していますか?
言葉? 態度? 暴力? あるいは心の引き出しにしまいこんで表現しない? ではまず最初に私たちはどのように成長してきたのかに遡って見てみましょう 産まれたばかりの子供は自分の欲求を ぎゃあぎゃあ泣く ことで表現します 怒りに限らず不快感や何か要求があれば泣いて表現しています そして少し成長し 2、3歳になると歩けるようになりますね。 ある程度自分の体を自分の意志で動かせるようになり、 彼らは自分の欲求を体で表現することがあります 例えば 欲しいものがあると歩いていって取りにいく 手でつかむ などです 言葉も少しずつ出てきてますが 本人にとって言葉より体が動く方が楽なので 隣にいる子供のおもちゃを触ってみたい時に無言で奪ってしまったり 怒りを感じた時に相手をぶったりたたいたりすることがあります そんな時に幼稚園の先生は何とアドバイスするでしょうか? そうです お口で言いましょう(言葉で伝えましょう) と子供にアドバイスします この答えがまず第一に私達が実践することです つまり、怒りに限らず全ての感情をまず言葉で相手に伝えましょう ということです 言葉で伝えることはわかりました では、どんな言葉でどう伝えたらいいでしょうか? コミュニケーションにもいろいろあります 攻撃的な態度で言葉を伝える人 はっきり言わないけど嫌味で伝える人 感極まって泣きながら伝える人 目も合わせずそっけなく伝える人 何も伝えず陰で泣く人 いろいろですね ここでみなさんに質問です アサーション権という権利を御存じですか? 【アサーション権】 人は生まれながらにして基本的な人権としてアサーション権を持っています。 アサーション権とは、私たちは、誰からも尊重され、大切にしてもらえる権利のことで、 人間の尊厳は誰を侵すことも、誰からも侵されるものではないことを意味しています。 つまり人権の基本です。 このアサーション権をふまえた上で 怒りを言葉で表現していきましょう 「怒りを扱う時に 自分に芽生えた怒りの感情を自分の中で踏みにじることなく 素直に怒りを伝えましょう なおかつ、相手の人権も尊重したうえで怒りを伝えましょう」 これが今日の核心です 怒りの扱い方 ・小さな怒りが芽生えた時点で アサーティブな表現で (相手の人権も自分の人権も大切にしたうえで主張しましょう) 相手に怒りを伝えましょう ということです まずは自分の怒りをアサーティブに伝えてみましょう 例)1 順番待ちで並んでいたら横入りされてあなたはムッとしました いろんな表現の仕方があります ・「あー!横入り!」 ・「横入りしないでください」 ・「ちょっと!何横入りしてんの?」 ・「あなたって本当にマナーのない人ね!」 ・相手が気づくまで睨み続ける ・何も言わず我慢する ではこれをアサーティブに表現してみましょう 「すみません。この列は皆さん順番に並んでて、私も並んでいるので後ろに並んで頂けますか?」 相手のことも思いやりますが 自分の要求はきちんと伝えましょう 例2 1.あなたは主婦です。毎日、幼い子供の世話で自分の時間が全くとれず、 ストレスがたまってきました。そんな中、夫は残業でもないのに、 どこか寄り道をして遅く帰ってきました。そのことにいらいらしたあなたは夫に何と言いますか? ・「こんなに遅くまでどこ行ってたのよ!ちょっとは子供の面倒見てよね!」 と怒鳴る ・もう話もしたくないくらい怒ってるので、夫が帰ってきても口を聞かない ・ものにやつあたりする ・夫に嫌味を言う アサーティブに話してみましょう。 解答例1 「今日はどこ行ってたの?仕事が早く終わる日は、 子供と遊ぶ時間を作ってくれると嬉しいのだけど、協力してもらえないかな? 毎日私だけで子育てをするのは正直負担だし、心細いから。」 解答例2 「子供の成長は早いから、今しか味わえない子供の成長を一緒に楽しみましょう。 たまには早く帰ってきて子どもと過ごす時間をつくってくれない?」 そのほか、自分が普段ふと感じる怒りに対して、 どう相手に伝えることができるのか、生活の中で考えながら過ごし、 実際に相手に伝えてみたりしながら怒りを小出しにする練習をしてみてください。 「怒り」だとしても、自分と相手を思いやりながら、 愛をもって冷静に伝えるならば、 それらはカインの性格に該当する怒りではなく、 お互いの成長、お互いの絆を深めるための宝になるのではないでしょうか? 最後にひとつ覚えて頂きたいことがあります アサーティブに伝えるのは あなたの責任分担 でもそれをどう受け取り どう反応するかは 相手の責任分担です だからあなたは、伝えたいことを伝えたならそこであなたの使命は終わりです 伝えたことにまず満足しましょう そして相手がどんな反応をしたとしても それはあなたにはどうにも変えられない分野だということを認識しましょう 神様が私たちに御言葉を伝えてくださいますが その言葉をどう受け止めるかは私達の責任です 神様が私たちを愛しているからといって力づくで私達を天国に引っ張ったりできません 神様でさえ介入できない人間の自由意志ですから 私たちはなおさら介入できません だから相手の反応を直そうと頑張らず まずは 自分が自分の責任分野である 自分の気持ちの伝え方 を学んでいきましょう ここでのポイントは相手の反応は変えられないから 自分のものとして抱えずに しょうがないこととして 「手放す」ということです まずは自分に集中すること これを忘れずに 今週一週間 よりアサーティブな表現をお近くの兄弟姉妹や家族と練習してみてください 次回予告 寂しさについて ○寂しい理由 ○寂しさが引き起こす行動 ○寂しさへの対処法 お楽しみに♪ |
| 2010-7-12 22:32 |
愛の階段
バイブルスタディを一通り聞き終えた人へ
韓国はクリスチャンの人も多いので、 この教会に呼ばれることによって 今まで愛していたイエス様の心情と再臨の時を悟り さらに熱い愛が芽生えて修了式を迎えた方々が いらっしゃったかもしれないですね。 霊的に赤ちゃんと言いつつも、 少し成長した赤ちゃんが多そうな気がしました。 日本人の場合にはイエス様について知らない人達がほとんどなので、 本当に産まれたばかりの赤ちゃんが大半かもしれません。 肉的な段階だと、 赤ちゃんは愛も憎しみも何もなくただ真っ白な状態で産まれてきます。 赤ちゃんは自分では何もできないため、母親等の保護者を必要とします。 この段階では赤ちゃんは母親を愛しているというよりは、 本能的に必要としている段階です。 (愛情ではなく愛着です。) 右も左もわからない世界で、赤ちゃんは不快や不安、 欲求等を泣くことで訴えます。 赤ちゃんが泣くのを聞いた母親が赤ちゃんを抱っこして、 あやしてあげたり赤ちゃんの欲求に応えてあげることにより 赤ちゃんは自分がいる世界は安全だということ、 自分は守られていると感じて安心して成長することができます。 生活の中でこれを繰り返しながら、 赤ちゃんは安心して様々な体験をしたり 様々に自己表現をしていき、 自分の存在そのものを愛されていると感じていくようになります。 そして保護者が自分に注ぐ愛を感じながら成長し、 自分も他者を愛していくようになります。 霊的にも、同じことが言えるのではないか、と個人的に感じています。 つまり、いきなりイエス様の愛を悟り熱烈に愛するようになる というよりは 御言葉や兄弟姉妹を通しての出来事、賛美、お祈りを通して毎日少しずつ イエス様の愛を感覚的に感じながら、 「自分は守られている」「自分は愛されている」 と感じる瞬間の積み重ねによって、 自らもイエス様を少しずつ愛していくようになるのではと思います。 また、愛情を深めるにはまず、お互いの信頼を深めることが大切なので 無理に愛そうと頑張るよりは 毎日ちょっとずつイエス様に自分のことを話し、 自分も少しずつイエス様について知りながら、 生活の中でイエス様との思い出を増やし、 イエス様を信頼できる段階を目指すことも 大切なのではないかと感じました(*^o^*) 成長に飛躍がないように、愛も飛躍はありません。 新しく来た方々も長年いらっしゃる方も、 それぞれの段階に応じて 毎日少しずつ主との距離を縮めていきたいですね(^o^)/ |
| 2010-7-10 10:06 |
肯定感と否定感
【肯定感と否定感】
まず最初に、肯定的な人と否定的な人は どうやって人格形成されるのかを見てみましょう。 結論から言うと、肯定的・否定的というのは産まれつきではありません。 肯定的な人は、産まれてから大人になるまで、 肯定的になる練習をたくさんしてきたため、肯定的になっています。 「練習なんかした覚えないけど?」って本人は思われるかもしれませんが、 大人になるまでの過程、特にに幼少期の頃に、 親や身近な人達から「肯定的な言葉かけ」が多かったために、 自分の中で物事に対する感覚が「肯定的」になるように 生活の中で自然に訓練されてきています。 否定的な人は、産まれてから大人になるまで、 否定的になる練習をたくさんしてきたために否定的になっています。 大人になるまでの過程・幼少期から 親や周りからの無意識な否定的な言葉がけや 否定的な態度に影響されて否定的になっています。 特にあからさまに否定されなくても、 なんとなく相手にしてもらえなくて自分は重要じゃないと感じたり、 誰かと比較される言葉が多いと、自分に自信を持つチャンスを失います。 すべては自分の過去の経験がつくりあげた「感覚」なので、 これを崩していくには新たに経験を積んでいくことで解決していけます。 つまり、みなさんがいつも実践されている「肯定的な感覚を持とう」 と意識して努力することの積み重ねによって回復できます。 「あれ?それはちゃんとやってるんだけど・・・?」という方は多いですね。 実は、上記の努力のほかにもう一つ必要なことがあります。 自分が否定的に感じるようになった要因を過去に遡って思い出し、 その時の傷ついた心を癒していくことです。 人は、過去にものすごく傷ついたことがあった場合、 その思い出が心の中にガラスの破片のように突き刺さっていることがあります。 その思い出がいつまでも心につきささっているので、 生活の中で何かがある度に突き刺さったガラスの破片によって心が刺激され、 過去に感じた通りの否定的感覚が蘇って、 何が起きてもその通りの否定感に囚われていることがあります。 まずは、突き刺さったガラスの破片をとってあげ、 傷口を癒してあげる必要があります。 自分はこういうことが過去にあったから 人と自分を比べて落ち込みやすいんだなあ、とか、 こういう風にいつも言われてきたから自分に自信が持てないんだなあ、 等々思い出したことを日記に書いてみたり、 イエス様にありのままを伝えて 「私の傷ついた心を癒してください」と切にお祈りしてみましょう。 ガラスの破片を取り除き、傷口を手当していきながら、 肯定的に考える努力をすることで、 少しずつ自分の気持ちが肯定的になっていくと思います。 そしてもう一つ。 実は、この心の傷をいやす作業をしているときが、 否定的だった過去よりもずっと精神的に辛く、心も体も疲れやすくなります。 なぜかというと、ただ否定的だった頃は、自分の心には葛藤がありません。 心の中は否定的な心ひとつだからです。 でも、回復しようとすると、否定的な心と肯定的な心が存在するため、 その葛藤によって心が引き裂かれるような辛い思いをすることがあります。 また、過去を思い出し、思い出を消化することは、 目には見えない莫大なエネルギーを使うために心が消耗します。 ガラスの破片を抜く作業で、人によってはものすごく不安定になることがあるので、 過去を思い出すと自分だけでは乗り越えきれない衝撃を自分の中で感じたなら、 カウンセリングに行ってみることをお勧めします。 その道の専門家の助けを借りることで、 より安全に心のガラスの破片の除去作業をすることができるからです。 人間の心は目には見えないために年に一度の健康診断もありませんし、 そのメンテナンスは個々に任されてしまうのですが、 だからこそ、放置した場合の悲惨さは、 時にその人の・霊・肉・心の命を奪うほどのものになっていきます。 今、再臨を迎える時だからこそ、イエス様が深い愛をもって、 ひとりひとりの心に大きく働かれているのを感じます。 このときがチャンスだと思って、ひとりひとりが自分の本音と向き合い、 より深い段階でイエス様との愛を成していかれることをお祈りしています(^-^) |
| 2010-7-4 18:49 |
メンタルヘルス講座
メンタルヘルス講座2
「誤解の構造」 怒りには段階があります。 小怒 「は?今の言い方何?」 中怒 「ちょっとは私の気持ちも考えて米」 大怒 「もうこの人とは口も聞きたくない!」 人と人との間に芽生える怒りの原因は、気持ちのすれ違い、誤解が多いです。 たとえば、自分が予想した事・欲した事とは別の反応・結果が返ってきたときなどです。 まずは小怒の時点で、何が起こっているかを確認してみましょう <小怒りの一例> 「これって××ですか?」 あなたが5人の人に、同じ質問をしてみたところそれぞれ異なる反応がありました。 Aさん 「違います」(即答&無表情) Bさん 「は?違うに決まってるでしょ! 」 Cさん 「えっ?あっっう~ん。。。(ちょっと慌てた後沈黙して終わり) Dさん 「ちょっと違うかな~。こうじゃないかなー。」 Eさん 「もーやだなー!違うよ~(笑)」 ここでみなさんに質問です。 あなたは何さんからの答えに一番カチンときましたか? また、どうしてカチンときたのか具体的な理由を少し考えてみてください。 では次に5人の方にどうしてそう答えたかインタビューしてみましょう Aさん 「え?違うと思ったから「違います」と答えました。それだけです。 え?なんでそんなに無表情で固い言い方するかって? そんなつもりは全くありませんが 私はそんなに無愛想に見えるんですか?」(驚いて終わる。) どうやらAさんは答えを忠実に伝えただけのようです。 Bさん 「だってそれぐらい知ってるのが常識でしょ! そんな質問されてこっちがびっくりしちゃったわよ、もー。 今、忙しいんだから私にそんなこと聞かないでよね(怒)」 Bさんは質問+相手に憤慨しています。 Cさん 「えっっあっあのっ、私もわからなかったんですけど、 わからないって言うのも恥ずかしいし、 逆に今一緒に考えた方がいいかなーって悩んでたら、 何も言えなくなっちゃって。。。す、すみません・・・」 Cさんは質問に答えられず罪悪感を感じたようです。 Dさん 「違うとわかってたんですけど、 はっきり話して本人のプライドを傷つけたらどうしようって思って。 それであえて断定を避けたんです。私の答え方で大丈夫だったんでしょうか? Dさんは相手の気持ちに配慮してこのように答えました。 Eさん 「いや~、まさかそんなこと聞かれると思ってなかったから、 つい面白くて笑っちゃったの。 いや~○○さんてほんとおもしろいよね~。 ○○さんのそういうところ好きだよ~(再び笑う)」 あなたの質問はEさんのつぼにはまったようです。 ○それぞれが反応した理由がわかりましたか? ○自分にとって意外な反応をしていた人はいましたか? ○自分だったらどの人に近い反応をしますか? どの反応がいいとか悪いとか評価するよりも まずは、人それぞれ感じ方が違うために いろんな反応があることを受け止めましょう 感覚が違うために反応がそれぞれ違うんですね。 ここでとっても大事な補足事項をします。 【コミュニケーションをとるときにタイプの違いがあります】 1.「言葉」+「相手の表情・言葉のニュアンス」を 総合的に判断してその言葉を受け取る人 ・人の表情や言葉のニュアンスをくみ取ることで他者と 心を通いあわせる。冗談や嫌味に敏感に反応。 2.「言葉」のみに反応してコミュニケーションをとる人 ・相手の表情や言葉のニュアンスはくみとらない ・事実のみを忠実に伝えるため、唐突に聞こえたり、 相手をムッとさせてしまうことがある(本人は気付いてない) ・冗談も嫌味もほとんど通じない たとえば、1のタイプ(女性)と2のタイプ(男性)の夫婦が レストランで食事をしました。 タイプのひとは、食事がとてもおいしかったので、「おいしい」という 喜びを相手とも味わいたくて、2の人にこう話しかけました。 「この料理、ほんとにおいしいね!」 2のタイプの人は、気持ではなく、言葉に忠実に反応するタイプです。 彼は、1さんが「料理」について語り合いたいのだと思いました。 「この料理に入ってる、この材料。 実はミネラルがたっぷりで、ビタミン○もはいってるんだよ。 ビタミン○は他の食物では摂取しにくいからこの材料は地球上で本当に貴重な食物なんだよね。 あと、この材料・・・・」 と自分が知っている限りの知識を出してきて延々と栄養の話がと止まりません。 1さんは気持ちのやりとりがしたかったのに、いきなり栄養の話をされてうんざりです。 1さん「もう、その話はいいから。早く食べようよ。」 2さん「先に話したのは君だろ?なんだその言い方は!」 と怒ってしまいました。 コミュニケーションをとる中で、同じ言葉だとしても、 お互いが何を大切にして話しているかによって、 こんなにもすれ違いが生じるんですね。 この例を参考にして、自分は「気持ち」を共有しながら話をしたい人なのか、 「気持ち」よりも「言葉そのもの」に忠実に反応するタイプなのか、 少し考えてみるのもおもしろいかもしれません。 次回予告 「怒りの扱い方」 怒りをなくす努力よりも、怒りの扱い方を学びましょう ①お互いの感覚や受け取り方の違いを理解することで ある程度怒りはなくなっていきますが、全滅はしません 様々な感情が芽生えることは、心が生きている証なのです ②怒りは、自分が何を欲しているのかを教えてくれる貴重な サインなので怒りの感情そのものは悪くありません。 でも、放置すると怒りはどんどん成長していきます 小怒⇒中怒⇒大怒 小怒の時点で怒りに対処! 怒りを外に表現する方法を学びましょう。 お楽しみに♪ |
| 2010-6-29 20:32 |
メンタルヘルス講座より抜粋
【某教会で行ったメンタルヘルス講座より抜粋】
教会は、個人ではなく、個人個人が集まってなされる、「キリストの体」です。 一人ひとりがキリストの肢体の一部分となり、 それぞれの役割(使命)を担っていき、 最終的に全体で「キリストの体」になります。 教会が生きたキリストの体となる上で大事になってくるのは、 それぞれの肢体がつながってひとつの体となることです。 役割と役割をつなげてくれるのは、「協調性」ではないかと思います。 協調性と聞くと、たとえば、 教会行事があったときに全員が参加していること、とか、 みんなが同じ意見であること などと錯覚されてしまうこともありますが、 「協調性」について、少し発想を変えて頂きたいと思います。 相手の意見に無理やり合わせたり、 迷惑をかけたくないから言われた通りに行事に参加する というのは「協調性」ではありません。 協調性は、自分について、相手について理解した上で、 無理やりではなく心から協力したり、 お互いが共存できる方法を探していくことです。 なので、協調性を身につけるためには 「個人のわがまま」をなくすという発想ではなくて、 「どうして、自分はこうなのか?」 「どうして相手はそうなのか?」 と、 自分と相手について知ることから始めていきましょう。 お互いについて深く知り、 お互いの認識の違いや価値観の違いを理解しながらつきあっていくことで、 よりお互いへの理解と兄弟愛を深めつつ、 天が私たちに望む「協調性」を身につけ、 主の体になっていきましょう。 このメンタルヘルス講座は、精神病について学ぶものではなく、 兄弟愛を深めていくために 私たちがお互いをどう理解し、 どういうコミュニケーションをとっていくことが理想なのかを お祈りしながらつくっていこうと思うので、 メンタルケアというよりは、 コミュニケーショントレーニングのようなものも入ってきます。 自分について知り、自分を解放することが心の健康にもつながりますし、 相手について知り、相手への理解を深めることは コミュニケーション能力の向上にもつながります。 次回は、それぞれ個性が違うタイプの人たちが コミュニケーションをとるときに陥りやすい 「誤解」について紹介しようと思います。 お楽しみに♪ |
| 2010-6-12 10:34 |
感情表現
自分の精神を治められるかどうかで
人生の成功失敗が左右する と言っても過言ではないくらい 自分の精神は大切です 「感情」も同じです 自分の感情を治めるというと 感情にブレーキをかける というイメージが先行しがちですが 実はその反対です 人は自分の感情をおさえこんでいくことで 心を患っていきます 私自身、長年のうつ状態から回復できたのは ○十年もの間にためこんだあらゆる感情を イエス様の前ですべて吐き出すことができたことが 大きかっただろうと思います だから、感情を治めるということは感情を抑えることではなく 感情を外に表現し、解放してあげることです そして、感情を外に表現するときに 「適切に表現できているかどうか」 が、とても大切なのです みなさんは「怒っている人」と聞いてどういう人を想像しますか? 1.怒鳴っているひと 2.暴力をふるう人 3.直接怒りを表現しないで、黙り込む人 4.いじけて周りから離れていく人 5.嫌味を言うことで怒りを表現する人 いろいろあるかもしれません 残念ながら上記5つの怒りの表現は「適切な表現」ではありません なぜなら、これらの表現は 自分の中に芽生えた怒りの理由を表現できていないだけでなく 自分のことも相手のことも傷つけているからです 例えば、誰かがあなたとの約束を破ったとします 1.「なんで約束破ったのよ!うそつき!」 2. 約束を破った人に対して、または関係ない人に暴力をふるう 3.「・・・」怒ったので相手を無視する 4.「どうせ私のことなんか、大切に思ってないんでしょ・・」と相手から離れる 5.「約束も守れない人とはつきあえないね」 という代わりに 「あなたのことを大切に思っていたし、信頼していたから、 約束を守ってもらえなくて悲しかった。」 と、素直にあなたの気持ちを伝えましょう ①自分の気持ちを素直に伝えること ②相手と自分への思いやりをもった言葉を使うこと これが、あなたの怒りに対する「適切な表現」です 私たちのそばには、「適切な感情表現」を指導してくださる 最高の方がいらっしゃることに気付いていましたか? その方は イエス様 です 聖書を通して 御言葉を通して 啓示者が伝える啓示の御言葉を通して イエス様が、人間に対して感じるあらゆる感情 (愛情・喜び・期待・怒り・悲しみ・憂い・寂しさ 等すべて) を、 決して怒鳴ることなく 決して暴力をふることなく 決して私たちを無視することなく 決していじけることなく 決して私たちに嫌味を言うことなく 愛情をこめて私たちに理解できるように 適切に表現されています どんなに怒りを含んだ表現だったとしても そこには人間への「愛」が流れています だから、すべての感情を表現するときに 「愛」をもって伝えること が、天が私たちに望まれていらっしゃること なのかもしれませんね |
| 2010-6-7 6:00 |
天がくださった仕事
今、新しい職場でとても楽しく仕事をしています!
仕事ってこんなに楽しいんだって産まれて初めて知りました。 今まで、本当の自分と向き合わずに生きてきたため 仕事に対しても自分の適性がわかっていなかったことと、 自分の気持ちを表現したり、自分の好きなことに挑戦することに 罪悪感を覚えてしまう思考回路だったたために 自分の夢を10年越しでかなえることになりましたが、 それでも、気付いて方向転換できたことに心から感謝です。 これも、心の回復に取り組んでいなかったら一生できずに後悔したことだと思います。 今回、私にとっての転職は、かなり勇気のいる行動だったので 神様にかなり必死で祈ってました。 最初は自信がなかったのもあり 前職を続けようと思って頑張り始めた頃、 仕事中そこまで大きな失敗でないことを ものすごく大げさに複数の人から怒られたことがきっかけで転職を考え もう一度だけ「転職すべきかはっきり教えてください」と祈った時、 今まで一度もしたことがなかったようなミスを仕事でしてしまい それをきっかけに以前より多くの人達から非難中傷を浴びました 「これは絶対転職したほうがいいというサインだ」 と、自分の中で感じ、 その日から大急ぎで転職活動に励みました 早速、職業紹介所に通い始めた頃、 窓口の人から 「あなたは絶対転職できるから大丈夫だ。」 と、なぜか力強く励まされ その後足を運ぶ度に 「あなたは絶対良い職が見つかるから、 あきらめちゃだめだよ。」 という激励の言葉とともに 「ここは、あんまりよくないなあ。 あ、ここ受けてみたらいよ。・・・・」 と、就職先まで考えてもらい 「いやー、そこはちょっと私にはハードルが高くて無理です。」 と私が断っても 「いや、絶対大丈夫だと思う。紹介状出すから履歴書送ってみて。」 という具合に 神様が後押しして就職先を探してくださっているとしか思えないくらいの バックアップがありました そして、面接や試験は、仕事をしてるより何倍も楽しく 転職活動はとても充実したものでした 半面、転職活動を始めた頃からなぜか仕事が忙しくなり 残業続きに加えて、面接・試験は土日が多かったため 平日に睡眠時間を削って履歴書等書類を用意し 土日、試験を受けた後に礼拝に行ったり 全く休日がとれない中で 体は毎日痛くて死にそうでした あきらめそうになっていた頃、 体調不良を押して試験会場に向かいましたが あまりにぼーとしてたため 筆記用具を忘れて会場に来てしまい あわてて近くのコンビニで鉛筆と消しゴムを買い試験を受けるも 頭が働かずに半分も書けず 面接では、言いたいことがたくさんあったのに いろんな駄目だしをされて 私の質問時間は全くなく10分もたたないうちに面接が終了してしまい 「え~????終わっちゃったの?」 というあっけないものでした 前職の仕事の忙しさも増すばかりで もう心身共に限界・・・ 経済的には苦しいけど もう、ギブアップして仕事やめようか・・・ と考えていた時に今の職場の内定を頂きました ほんとに、何がどうなるかなんて 人間の考えではわからないから 最後まであきらめてはいけないんだなあ と、感じました 就職が決まった嬉しさと 前職をやめられる嬉しさで その日から私はものすっごい元気になり 朝が辛くてまったく起きれず祈れなかったのに 午前3時に起きて心から祈れるようになったり 霊が元気なためか頭がさえわたって 仕事がのろかった私が仕事速くなったり 心の面ではうつ病的な症状が全部なくなって すっかり元気になっていました 念願の職業につけたこともあって 私の中で 何年も、もんもんとしていた気持ちや 以前、念願の職業に就けずに傷ついていた心は癒され 今はすっきりとして気持ちで生活しています 自己実現を実践できた自信にもなりましたが 同時に 神様が後押ししてくださるならば できないことは何もない ということも実感しました 私の実力で勝ち取ったものではなく 神様が用意してくださった職場なので いつも神様に相談し 神様と共に仕事をしていきたいです |
| 2010-5-18 20:21 |
絵本のように
文章を書くことが大好きな私ですが、
そのルーツは、「絵本大好き」にあるのかもしれません 幼い頃から、母から絵本を読んでもらう時間が 一日の中で一番楽しみで、 何度も何度も読んでもらっていた覚えがあります 今でも絵本が大好きなので、 病院の待合室では、よその子供たちと同じように めちゃめちゃ真剣に絵本を読んでます(笑) あ、でもほかの子供が読みたそうだったらちゃんと譲ってますよ。 ところで、どうして絵本がおもしろいかというと、 絵本は 言葉は少ないけれど 絵が多ので 自分の中で物語に対する想像が広がりやすく 「絵本1ページ」の中にものすごくたくさんの物語を感じるのと 毎回読む毎に自分の感じ方が変わるから です そして、私、 毎日の気分にものすごくむらがあるし 注意力散漫なことが多いので どうしても聖書を読む気になれない時が多いのですが そんなときは 「イエス様ー!絵本を読むみたいに 私に聖書を読み聞かせてください!!!」 ってお祈りしてから 聖書を読んでいます そうすると、すごく不思議なんですが 漢字と文語ばっかのこまかーい字の羅列にしか見えなかった聖書が なんか、ものすごーく、やわらかく自分の心に入ってきて 自分の頭に聖書の箇所の情景が浮かんできたり 聖書の登場人物が自分の目の前に現れて生きて話しているような感覚になったりするし イエス様が個人的に私のために聖書を書いて 私のためだけに読んでくれてる気分になるんですよ それでも、 よく意味がわからない箇所も正直結構あるんですけど その、あたたかい雰囲気というか、 あふれるようなイエス様の私への愛情を全身で感じるので どんな箇所を読んでも 「へえ~、イエス様って優しいんですね 」っていう結論になぜかいつも至ってしまい 頭ではあんまりよく理解してないんだけど なんか、イエス様の愛を感じてもう満腹です~☆☆☆ 読んでくれてありがとう~ ![]() 私を産んでくれてありがとう~ ![]() っていう気分になります 御言葉をかみ砕いて理解することに人並み以上に時間がかかり どちらかというと、御言葉苦手な自分が どうしてここまでイエス様を好きになれたかというと たぶん、こういう時間に助けられているからじゃないか と思います 心に傷があるために歪んだ認識がまだ残っていて 御言葉から天の無償の愛を感じることにかなりのもがきを感じる日々ですが そんな自分だからこそ 私が御言葉を通して感じる愛を 少しでも感覚でくださろうと イエス様が気遣ってくださっているようで 涙が出るほど嬉しくなります どんなに不利と思われるような状況だとしても 一人ひとりの救いのために イエス様は 個人の不利な状況を有利にしてくださるような 奇跡のみわざを 毎日、一人ひとりの生活の中で 起してくださっているのかもしれませんね あまりにも知恵深く 愛情深く ユニークで かっこいい イエス様に めろめろな私です |
| 2010-5-2 15:51 |
祈りの力
最近、いつになく絶好調な感じの私ですが
理由は 自分の心が軽くなって 「喜んで心からお祈りできるようになったから」 だと思います 今までは、ちょっとしたことで心がうつ状態に陥り その「うつ状態」を長く引きずると 仕事や日常生活もままならず 「生きている」こと自体辛くてしょうがなくなる 状態まで追い込まれることが多かったため 睡眠不足や 自分にとってストレスになること ハードスケジュール を極力避け、 仕事にも支障をきたすことがないように かなり配慮しながら信仰生活をしていました いつも心が重たいから お祈りする気にならない時も多かったし 自分をお祈りするようにもっていくのに一苦労でした 最近は、長年「やってみたい」と思ってた職種への転職が決まり 心がものすご~く楽になったのと、 (今までのうつ状態は、心の回復中だからというのもあるけど、 性に合わない仕事を続けてたことも大きかったかもしれません・・・) 今の職場とは近々お別れということもわかっているので 「もう寝坊しても仕事で寝そうになってもなんでもいいやー」 と、捨て身で午前3時からのお祈りに挑戦してみました。 そしたらですね、 不思議ですが、寝不足のはずなのに 仕事中、全然眠くならないんです!!! むしろ、夜明けに必死にお祈りをした日は 頭がすんごくさえてるみたいで ものすごいスピードで仕事できちゃうんですよ 職場の人にも 「仕事のスピード上がったよね・・・どうしちゃったの?」 とびっくりされるほどです 別に急いで仕事してるわけじゃないんですよ ただ、頭がさえてるから バババー!!!! という勢いで仕事終わらせて 「お先に失礼しまーす!」 と帰れる日が多くなりました すごいっす、イエス様。 本当はイエス様が私の手を動かしてるんじゃないか と思うくらいです (ある意味そうなんだと思います) おかげで、最近は礼拝も遅れずに守れる日が多くなりハレルヤです しかもですね、 人が多いがところが怖かったり 人口密度が高い場所は苦しかったり もう何年も前に教会で傷ついたこととかいろいろ思い出しちゃって 半年ほど今通ってる教会の礼拝に足を運べてなかったのに 最近足を運べるようになったんですよ~ 足を運ぼうとすると、ものすごく具合悪くなってどうしても行けなかった あの半年間の苦しみは一体何だったのか・・・ とにかく、 夜明け3時のお祈りによって自分の中でいろんな奇跡が起きてます!!! 私はもともと注意力散漫なところがあるため 長い時間集中してお祈りするのは難しいんですが 「切実に祈る」ことを少しずつ覚えてきて 私の死んでいた様々な機能が 私のつたない祈りに応えてくださる神様、イエス様によって 復活し、息をふきかえしている感じがします もちろん、寝不足なのは事実なので 休養をとる時間はしっかり作ったり 自分にちょっとしたご褒美をあげて自分を励ましたりしながら 持続して 夜明けに祈り、日中は元気に過ごす というサイクルを自分のものにできるよう 思考錯誤しています 切実に祈って 自分の運命も、 家族の運命も 民族の運命も 世界の運命も 神様が働いてくださり より良く変わっていきますように |
| 2010-4-30 5:33 |
有限から無限へ
神様を信じて行えばできないことはない
信じて行えば奇跡が起こる という言葉 アーメンです でも、大事なことを忘れてはいけません 無限の可能性を秘めている私たちではありますが 無限の可能性を現実のものにするためには 今現在の 「限界」 についてはっきり知っておく必要があります 今の自分の実力 今の自分の体力 今の自分の精神力 では、 「ここまでならできる。ここまでが限界だ。」 ということを知ってこそ、 その限界を超えるために 自分に何が必要か が見えてくるからです 昨日まではここまでが限界だったけど、 今日はもう一歩、先に進めるよう頑張ってみよう 明日はさらにもう一歩・・・ と、 少しずつ、少しずつ 自分が持つ限界を着実に超えていってこそ 「当時」は思いもよらなかった 「奇跡」 を起こすことができます あきらめてしまいたくなるような 地道な努力や苦労の日々の中で 今ある限界を乗り越えるための 原動力となり、私たちを支えてくれるのは 「必ずできる」 と信じる心であり 「イエス様が必ず手を差し伸べてくださる」 「天が必ず力を与えて乗り越えさせてくださる」 という信仰 ではないでしょうか 「信じれば必ず成せる」 「信仰によって不可能を可能にする」 という過程には 毎日、毎瞬間 私たちが主に頼り、求め、忍耐し、希望を忘れず 自分と主の一対一の対話があり その中での主との様々なエピソード があります 「達成した」ことそのものよりも 「達成」する過程で経た 主とのエピソードこそが 私たちの何よりの宝物になるのかもしれません だから、 「奇跡」は 神様の力だけで成してくれるものでもなく 自分だけで行えるものでもなく 自分と天との「対話」の結果であり 「共同作業」とも言えるのかもしれませんね |
| 2010-4-3 23:01 |
兄弟姉妹
私は、心のリハビリに取り組んで
最初の3年ぐらいは、主に自分の家庭の中で受けた傷を癒す期間でした 3年が過ぎ、自分が心を癒す「過去の時期」の対象が 少しずつシフトしてきて、 去年末あたりからは 私が大人になってから 「信仰を持って教会に通っている期間の傷」 を癒す取り組みが始まりました 「始まりました」と言っても、自分から自発的にそうしてるわけじゃなくて、 状況的に、その期間の傷に向き合わざるを得ない状況に陥るから、 辛すぎて過去と向き合わざるを得なくなる というパターンです。 正直言って、傷と向き合うのは辛いんで、 「私、もう十分頑張りましたからリハビリは終わりにしてくださーい! お願い、神様ー。もうそろそろ楽にさせてください・・・」 という心境ですが 神様は私の成長と回復のために 私の中に残る傷を癒すため 最善の時に最善の課題を与えてくださってるようです ところで、 心の傷の中でどういうパートの癒しに取り組んでいるかで その時に自分にとってトラウマになってしまってるものが違うようです 例えば、幼少期の辛い思い出と向き合いながら 癒しに取り組んでいた時は 電車の中や、道を歩いている時に、小さな子供を見かけただけで 泣いてしまったり、 胸が苦しくなって 頭の中が一時的にパニックになってしまったりしてました 中学、高校の頃の自分の傷と向き合ってる時は 中高生を見るのがすごく辛かったし 中高時代の友達にしばらく辛くて会えませんでした (友達から傷を受けたわけではなくて、 友達を通して私の中で「中高時代」の思い出がよみがえるから 辛かったんですよね) そして、 「教会での傷」 を癒す今、 教会に通うことがとーーーーーーーーっても辛いです(涙) 必死でお祈りして「教会行きたくない」と一人で泣いた後 やっとのことで自分の体を教会に運ぶときもあれば 「もうだめー。今日は行けないです。ごめんなさい、神様」 ってなっちゃう時もあります だれがやだとか、あれがやだ、とか 神様信じたくないとかそういうんじゃなくて 今は「教会」というもの自体が 過去の傷を思い出させる引き金になっちゃってて、身動きがとれなくて 「Oh My GOD!!! JESUS HELP ME!」 状態です・・・・ そんなこんなのもがき中な毎日ですが 最近、私が教会に通い始めて間もない頃から 一緒に教会に通っていた友人の結婚式に行きました 式では、数年ぶりに会う懐かしい人達も何人かいて 「久しぶりー」 とか話してる間に、 その仲間たちと、楽しく過ごしてた頃の思い出がたくさんよみがえってきて 「あー、私、あの頃、みんなと過ごすのが楽しかったわー。」 とか、 「そうそう、あんなこともあったなー。」 とか、どんどん楽しかったこと、嬉しかったことが思い出されて 「あー、友達ってほんま大切やわ~」 と、しみじみ感動して帰ってきました 「教会」と「教会に通う人」自体が 「教会で辛かった出来事を思い出す引き金」になっちゃってる今、 思い出すのが辛くて「教会」と「教会に通う人」を避けがちな日々でしたが 思わぬところから 兄弟姉妹を通しての、神様、イエス様の愛 を実感し 式から帰った後、感動してしばらく泣いてました こういう時のために 神様は私にこの人達を出会わせて下さったのかもしれないなー なんて思いながら 人を通して働かれる神様の愛に感謝感激しました 今まで私の中で 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」 の大切さは実感してたんですが 「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」 の大切さは、自分自身がいっぱいいっぱいなのもあって 自分の中で重要度がかなり低くなっちゃってました(汗) 今回、自分自身が隣人の真心と愛によって癒され助けられた時に 「あー、兄弟を愛しなさいというイエス様の御言葉を実践する人達には こういう力が神様から与えられるのかー」って実感しました 私が、 「今の状況は辛いけど、もう少し頑張ってみようかなー」 という気持ちになれたことだけでも 兄弟愛のパワーは絶大です 健やかなる時も、病める時も神様を愛するように 自分の周りの人達を そのように愛していけるようになりたいです |
| 2010-3-30 21:09 |
健康という祝福
心の傷は、いつかは癒されるものだと個人的には思っているのですが
癒される過程には、もがきと苦労があるんだなー と、自分の経験を通して感じています 「癒されるように」お祈りしたら 心がスーッと楽になって 「あー、良かった。なんか、元気になってきた」 というほど、簡単に物事が運んだことは 残念ながら私自身の経験の中ではありませんでした たいていは、 傷を「癒そう」とするにあたって 「傷ついた事柄」に向き合う痛みが伴います 思い出したくもない「事柄」について正面から向き合い 過去の痛みを自分の言葉と感情で何度も表現していく期間です 自分はその時本当はどうしたかったのか どのように感じていたのか 自分の中に押し込められていた 「恨み」や「悲しみ」「怒り」「言葉で表現しきれない気持ち」 すべてを、心の中から取り出し、自分の言葉で表現し どうあがいても変えることも 取り戻すこともできない過去を 自分自身のものとして受け入れていく時期は 心が血の涙を流しているようで 本人にとってはものすごくつらいものです そして、また その過去を自分のものとして受け入れた後、 現在と未来に新しい生き方ができるよう 思考回路と行動を新しいものにしていく過程で もがく期間があります これもまた、結構時間がかかるものなんです 「癒す」ことは誰にとっても良いことで 健康になるために必要なことなのに 癒すため、健康になるために このような長期戦のもがきがあるとは 私自身、心の回復に取り組むまでは思いもしなかったことでした 心の回復だけでも毎日こんなにひーひー言ってるのに 霊の回復なんてとてもじゃないけど・・・ と、つい泣き言を言いたくなりますが 自分の存在価値を一番理解してくださり 自分がこの世に生まれたことを一番喜んでくださっている イエス様が 自分の救いのために必死にもがいてくださった過去があり 霊で働かれている今なお、もがいてくださっているのだから だれを生かすことができなくても せめて自分を生かすことだけでも あきらめずに 精一杯やってみよう と思う、今日この頃です 誰もが自分自身の「心」でイエス様を受け入れ 愛するようになるのだから 「心の健康」 という祝福を 世界中の人が掴む世の中になることを 心から祈ります |
| 2010-3-20 22:38 |
思い出した感覚
最近一番の変化は
元気だったころの自分の感覚を思い出したことでしょうか・・・ なぜ、元気だった頃を思い出したかというと、 自分が一番元気だった頃にもっていた夢を 実現できるよう挑戦してみよう と、思い立ったことからです 高校生ぐらいの頃から、私には、やってみたいと思う仕事がありました でもその夢は何年も前にあきらめて、 自分の中で消し去りかけてた夢でした 私は自分が通う教会の活動にもっと力を入れるため その夢はあきらめたのですが 問題は、自分で喜んでそうしたわけではなかったことでした 教会の人に勧められて、この申し出を断るということは 神様の申し出を断ることなのでは・・・ もしや神様にも裁かれてしまうのでは・・・ 私のせいで、大切な神様の歴史をぶちこわしてしまうのでは・・・ という恐れが自分の中にあったんだと思います 最後には自分で結論を出して進んだ道でしたが 信仰を持たない私の家族からは いきなりの私の進路変更に対して激しい非難を受け 家族の非難に堪えながら 必死にがんばる教会活動も あせりと不安と、経済困難の中で しだいに私自身の心が病んでいき 何もかもが空回り、 半年後には、教会活動どころではなくなりました そのときは、正直ものすごい挫折感を味わいました 今思い返せば、その頃から、私はうつ状態だったんじゃないかなー と、思います 実際、うつではないかと思って病院に行くのは その2年後になるのですが、 2年の間、原因不明の体調不良に何度も襲われ いろんな病院をまわり、いろんな検査を受けていました 今、心を回復する過程で 自分自身の個性や適性が少しずつ見えてくるようになり 「自分がやりたいことをする方が 楽しいし、自信もつくのだから ここは思い切って、以前やってみたかったことに挑戦してみては・・・」 と思うようになり 仕事しながら、転職活動に励んでます この就職難の中、まったくキャリアのない分野に挑戦するなんて 以前の私には怖くて考えられなかったことですが 自分の人生での挫折や辛さを 誰のせいにもせず、自分のものとして生きるためにも この挑戦は必要なんだと感じてます 今、自分の気持ちに正直になって動いてみたときに ああ、やりたいことに挑戦するって こんなに楽しいことなんだ! という発見があって 生活の中でわくわくすることが少しずつ増えてきました そして、当時、自分が夢をあきらめた原因となった 「私の心の境界線」の問題について あらためて振り返るようになったり 自分の信仰観を見つめなおすきっかけにもなっています あんなに精神的に辛くてどんなにがんばっても起きれなかった朝は 不思議にも起きれることが多くなりました 子供の頃から、自分で人生を歩むというよりは 親の決定に従わざるを得なかった私は 信仰を持った後も、心の根本が癒されていたわけではなかったため 教会の中心になっている人からの言葉や、神様の言葉によって 「自分の人生は決定される」 という誤った認識を持って信仰生活をしていたために起きてしまった 私の人生における大きな事件でした この傷は、どう癒していいかわからなくて ずっと、ほったらかしになってましたが 今が、傷を癒すときなのかもしれません 私の心が健康を取り戻していきながら 私の信仰も愛も希望も健康になっていきますように |
| 2010-2-28 21:40 |
影響
最近、自分自身の気質について知るようになって
気付いたことがありました 私は、自分でじっくり考え、 納得して行動するときに初めて自分の心がすっきりするので 仕事をするときも、何かをするときも 「ああしなさい、こうしなさい。 あれはやったのか?これは今どうなってるのか?」 など、やってる途中の段階で 追い立てるようにいろいろ言われることが嫌いなんだな ということでした 私自身が、自由に自分のペースでゆっくり動くことに対して 周りからは「きっちり、ちゃんと、早くやって」 を要求されて育ったので どう考えても私の性質とは反対のことを要求されてたんだなー と感じました そして、周りからあれこれ言われてあわててしまって、 自分のペースを乱されておろおろしてるうちに失敗してしまい それをさらに叱られる という悪循環が私の子供時代の日常でした 私の中の不安と自信のなさは、 いつも自分のペースで物事を進められたことがなく 追い立てられてあわててしまうことで失敗を繰り返すために 成功経験が少ない という事も一因かもしれないと思いました このパターンが最も私が苦手とするパターンでもあり 非常に大きなトラウマでもあります あれこれ言われてペースを乱されて失敗する ということに対してのトラウマは 御言葉を聞く上でも私に大きな影響を及ぼしているとも感じました それは、 精神が不安定な時に御言葉を聞くと 御言葉を通して 自分の生活にあれこれ注文つけられているようにしか 聞こえなくなったり 御言葉を実践しようと頑張るんだけど すでにペースを乱された気分になって あわててやったりするから うまくいかなかったり、失敗したと自分が感じてしまうケースもあり それが、さらに私に自信をなくさせ さらに自己否定に陥ってしまうんだろう と感じました 私が自分に自信をつけさせ 御言葉を否定的に受け止めず 御言葉を聞くことも負担にならなくなるために まずは 「自分のペースでやっていい」と実感すること そして 「自分のペースで物事を進めてみたうえでの達成感を得る」 ということも必要な気がしてきました |
| 2010-2-14 23:11 |
イエス様に集中する
毎週聞く御言葉の中で
最近は心についての御言葉が出てきて個人的にとてもうれしいです ところで、 「自分の心をイエス様に集中させなさい」 という御言葉や 心の病もイエス様に心を向けないことで陥ってしまう という趣旨の話についてですが、 実際に心を患った経験のある人が 「自分はイエス様のことを考えてなかったから 信仰が良くなかったから病気になったんじゃないか」 と、自分を責めてしまわないために 少し個人的な意見を書かせて頂きます 私自身も、うつ病を患い、心を回復していく中で 毎日イエス様に助けを求めながら 人に言えないことは全部イエス様に伝えながら なんとか社会生活を送ってきたので 上記の御言葉には同意します ただ、 御言葉の中で言いたかったことは 「信仰が悪くて心を患った」 ということではなく 「イエス様が自分に注ぐ無償の愛を感じる チャンスに乏しいまま 生活していく中で 外的、内的ストレスが重なり病気に至った」 ということなのではないか と感じています 心の病の要因は人それぞれですが 幼い頃に「無条件の愛情」に飢えて育ったために 自分の考え方や行動が 自分を大切にする生き方になっていなかったり 自分も相手も大切にするという対人関係を学べていないために (健康な心の境界線を設定できていない問題) 生活の中で様々なストレスを抱えて病気に至るケースも 多いのではないかと感じています だから、信仰の話を抜きにしたとしても 心を回復していく中で 「無償の愛」を得ていくこと (ありのままの自分を自分が愛せるようになること) がとても大切です 信仰の観点から話すと イエス様は、すべて愛の根源は人間を創造された神様から注がれるものだと 教えてくださった救い主であり イエス様に集中し イエス様がひとりひとりに注ぐ愛を毎日感じ 愛の中で自分を成長させることによって 人間の心は健康になっていくのだから イエス様に集中して生きていきなさい ということなのではないかと思います ここで注意したいのが イエス様に集中するからといって 「自分の生活」は必要ないということではないということです イエス様が「イエス様に集中しなさい」とおっしゃる目的は 「個人」が健康に成長するためです だから、祈るだけにして 自分の心の回復をやめてしまわないことです 問題の根本原因がわかったとしても 変化していく過程では私たちはまだ「未熟な心」の段階なので イエス様の愛が無償の愛だと理解できるために 自分の心の器を健康にしていくプロセスが必要であり それは、祈ったからあっという間に得られるものではありません もちろん、祈りは必須だと感じています 毎日の祈り共に、 「自分自身の心と向き合い、自分の本音を表現できる場所をつくること」 「自分の心の境界線を健康にしていくプロセスを歩むこと」 (聖書の観点からみた心の境界線について興味のある方は 「バウンダリーズ(境界線)」 ヘンリー・クラウド ジョン・タウンゼント著 中村佐知・中村昇 共訳 地引網出版 をご参照ください。自分が個人的に聖書を読んで理解した信仰ある行動とは 違う行為を神様が望まれていらっしゃることに気付くかもしれません) 「毎日の生活の中で自分の心の癖に気付き、 不要な癖については少しずつ修正していく作業」 等々、私たちが健康になるために必要な行動を 自分一人でやるのではなく 隣に自分の成長を応援してくださっているイエス様がいることを感じながら その愛の中で成長していきなさい とおっしゃっているような気がします 短い文章だとしても 御言葉の中に存在する愛は深いものがあり 一回聞いただけではなかなか汲み取れなかったりすることもあるかもしれません すべての言葉には 必ず、ひとりひとりの成長を喜んでいらっしゃる天の愛が存在し 私たちの命の尊さを私たち以上にご存じな方からの 愛の言葉だと思って すべての言葉を心配せず、喜んで受け入れていきたいですね |
| 2010-2-11 21:37 |
やめようと思ってるのにどうしてもやめられない
決心したけど、その決心が崩れてしまうことがある ということは少なからずだれもが経験していることだと思います 自分自身の表面に出ている気持ちとは裏腹に どうしても反対のことをしてしまうとき 何か、自分の心の中にひっかかっている問題はないのか 自分の中の「無意識」を、表面に出していくことで 解決策が見つかるかもしれません 以前、読んだ本の中に 牧師をしている人が、どうしても衝動的に「売春婦」を買ってしまう癖 をなかなかやめられずにいました。(外国の話です) とうとう、うつ病になってしまい、回復のプロセスを辿る中で 彼は自分の奥さんに対する怒りを抱えたまま生活していたため 無意識に、奥さんを傷つけるような行為に走っていた ということがわかったのです。 怒りを抱えているからといって、誰もがこのような行為に至るわけではありませんし 何に対して(人に対してなのか、物や行為なのか等) 衝動的になったり、依存したりしやすいかは 人それぞれ違うのですが その牧師さんの場合はそうだったようです また、幼い頃から愛情に飢えて育ってきた「愛情飢餓感」を 異性との関係で満たそうとするために 健全とは言えない異性関係に走ってしまう場合もありますし 自分を大切にしてもらった経験がないために 自分を傷つけるような異性関係に走ってしまう場合もあります いずれにしても、心と体が健全に成長できてない段階や 自分の中の深刻化した問題に気付かずにいることで 神様が人間に下さった「結婚の祝福」を かけがえのない価値のある祝福として受け 「祝福」を所有し続けることが難しくなってしまうならば 自分自身を点検し まずは自分自身の価値、 自分が成長するということの価値 を十分に味わうことが 先なのかもしれません 物事を計画し、達成するまでには 様々なプロセスと段階に応じた成長があるように 神様がくださる祝福を得るために 私たちそれぞれに必要な成長のプロセスを 大切にしていきたいですね |
| 2010-1-30 21:36 |
行間
心の回復に取り組んでいるクリスチャンと話をした時に
「御言葉の行間を読む作業が難しいよねー」 という話になりました。 これは、語られた御言葉を実践していく時 どう実践するか 実践するために何が必要なのか は、ひとりひとりによって違うからです 特に、心の回復に取り組んでいる場合には 本人の回復の段階によってできること 必要なことが変わってくるために 同じ御言葉を聞いたからといって 同じように行動できるわけではないからです 例えば、 「伝道しましょう」 という御言葉が出た時 そのことを喜んで実践できればいいですが、 もし、そのことが苦痛ならば 「伝道する」以前に自分にひっかかっている問題は何か を把握する必要があるし、 ひっかかっている問題を解決するために どういうプロセスをたどり 何をする必要があるのか を把握して 問題をときほぐしていく必要があります 「伝道」できるのは 自分が神様と出会って本当に良かった という実感と、 この感動をほかの人にも伝えたい という、心からのあふれる思い があって、喜んでできるものなので まずは自分と神様の間にゆるぎない信頼と愛があるかどうか をふりかえってみる必要があります また、「神様と出会えて本当に良かった」 と思えていたとしても 対人関係に難しさを抱えていて 伝道を負担に感じる 心身共に自分が生きていくことだけで精一杯の状態だから 直接誰かを伝道することが難しい という場合もあるかもしれません そのほかにも、それぞれの状況によって 「伝道」するときにたちはだかる壁があるのだとしたら その壁を少しずつ崩していく作業も 「伝道」を実践していることなのではないかと思うんです だから、「伝道」という言葉を聞いたときに 直接「伝道」することだけにこだわらず 喜んで伝道できるようになるために 料理でいう「下ごしらえ」のような 準備段階も 決して無駄ではなく むしろ、それが自分と神様の関係をより親密にし 知らない間に、伝道する道が開かれるきっかけにもなる 希望に満ちた可能性をつくりだしているのではないでしょうか 私も、直接人を伝道できるようになるには 何年かかるんだろうか と思うほど 自分が生きていくことだけに精一杯の毎日です 私は、御言葉で聞いてことを負担に感じることなく できるようになるためには まず、自分の心が健康になること が先決だということを痛感しているので 「伝道」の話が出たときも 「ああ、そのためにも心の回復に取り組もう」 という結論に至りました 御言葉を実践しようとして、 その言葉をそのとおりにするには苦しすぎたり、ハードルが高いことが多い私は そのことを実践する前段階で、 自分にとって必要なことを自分で探す作業があるからこそ 「行間を読む」達人になれたらいいなあ と思いました |
| 2010-1-18 21:32 |
御言葉
自分には価値がない
自分はだめなんじゃないか という不安と 自分は何か足りないことがあって 誰かに責められてもしょうがないんじゃないか という不安があるまま御言葉を聞くと 厳しい言葉だけに過剰に反応してしまい 自分のだめさ具合を、 厳しい言葉によって証拠づけられたような気分になってしまうので 御言葉を聞く前に 自分を責めてしまわないように 自分の心の中にある恐れや不安が取り除かれて リラックスして御言葉を聞けるように こころがけています かといって、そんな調子がいい時ばかりではないので 不安定なまま御言葉を聞いて、案の定ぐさっときて 身動きがとれなくなってしまうことも多いんですが・・・ 人間の気持ちって本当に不思議で 自分が感じようとしていることを現実にもひきつけてしまうというか そのように受け取ってしまうというのか うまく言葉では説明できませんが 恐れがあるときには どうしても全部が怖く見えがちで 楽しい時には あまり細かいことは気にならず、 楽しい感覚が全面に出ていたりしますよね 同じ言葉を聞くとしても 「自分を心から愛せていて、 心に恐れや不安がない状態」 で聞いている人と 「自分を愛せず、心に恐れと不安を抱いている人」 が聞いた言葉の印象は きっと、全然違うんだと思います 無意識のうちにいろんなことを恐れて不安に思ってしまう私が 御言葉が苦手なのも そう考えればうなずける話で 私が御言葉を好きになるには (以前よりは好きになったけど、 まだ怖いという思いが結構ありますね) ただ、たくさん御言葉を聞けばいいという話でもなくて 私の中の恐れや不安を取り除いていくこと なんだろう と、思います 結局それは、心の回復の過程でもあるし 自分が教会に行って感じたこと、思ったことを 正直に話していく ということでもあるんだろうと思います 私が、御言葉の深さを悟れるまでの道のりは まだまだ長いけど あきらめず、地道に向き合ってみようと思います |
| 2010-1-14 1:05 |
タラント
新約聖書マタイ25章に出てくるタラントの比喩は
私が苦手とする御言葉のひとつです 主人が旅に出るとき、それぞれのしもべたちに預けられたタラント(貨幣の単位)のうち、 5タラント預けられた者と、2タラント預けられた者は それぞれそのタラントを増やして主人を迎えますが 1タラントを預けられた者が、何もせずにそのお金を土に埋めていたことで 主人の怒りを買い、その1タラントさえも奪われて追い出されてしまうという内容を読むたびに そのしもべが気の毒で、胸がしめつけられる思いをしていました 当時は、 「神様はシビアだ・・・ 公平というよりは、金持ちはもっと金持ちになり 貧乏人はもっと貧困に陥ってしまうような考えなんだろうか・・・ 働かないと私も神様に追い出されちゃうんだからがんばらないと。」 という思いがあって、 タラントの話が御言葉で出るたびに、怖がりながらあくせく働いたものでした (↑私もとんだ誤解をしていました。神様ごめんなさい(汗)) そして、今週、再びその聖句をじっくり読んでいて感じたことは そのしもべの心の中に 主人に対する「恐れ」 (尊敬や、かしこまる意味での恐れではなく、 本当に怖いと思い、心がちぢこまってしまうような感情) が存在したことが 彼が何もできずにタラントを土に埋めた原因のひとつではないか と感じるようになりました というのは、「恐れ」の感情は 自分の身をまもるために必要な感情ではあるんですが 必要以上に恐れを抱くことで様々な弊害が生まれることがあるからです たとえば、私は「恐れ」を抱えて生きているために 自分が表現したいことも表現できなかったり 恐れが自分を圧倒してしまうために 物事に対する意欲が奪われたり 「恐れ」があるまま、人と接するので ちょっとした言葉にも敏感に反応し、深く傷ついてしまうことがあります 私は、自分自身を自由にあらわすことができないから 自分の本当の姿を知る機会を逃しているかもしれないし 物事に対する意欲がわかないからこそ 自分の能力を開発できず、才能を開花させる機会も逃しているかもしれない 「対人恐怖」が、人と親密になることの障害になり 人を誤解しやすいのかもしれない とも感じています もし、1タラント任されたしもべが 私が抱えるような「恐れ」抱いて生きてきた人だったなら 実際に主人がさほどに怖くなかったとしても 「恐ろしい人だ」 と感じやすかったのかもしれない と、私なりの推測してみました 1タラント任されたしもべを擁護するわけではありませんが しもべは、本人なりの考えで必死に考えたことだったんだろう とも思います ただ、本当に残念なのは 主人がしもべたちにタラントを任せて旅に出る前に しもべたちをどれだけ信頼していたのか しもべたちの能力をどれだけ認めていたのか その能力が開花されることをどれだけ楽しみにしていたのか 残念ながら、その主人の心を感じることができなかったことですね これは、今の私にも、あてはまることなのかもしれない と、自分を振り返る良いきっかけにもなりました そして、今回タラントの比喩を読んで私が感じたことは 自分の中の「不要な恐れ」を取り除いていくことで 私は、神様が私に預けてくださったタラントを見つけ出し そのタラントを喜んで受け取り 開発させ、さらに多くのタラントとして 実を結ばせることができるかもしれない ということでした まずは、神様が自分にどれだけ愛を注ぎ 信頼し、育ててくださり 毎日の私の成長を楽しみとしてくださっているのか それを感じるところからスタートですね♪ |

















